2014年1月26日日曜日

第二回 イザベル・ユペール×『沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇』/永遠に解けない謎のような女









第二回 
イザベル・ユペール×『沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇』/永遠に解けない謎のような女

 みなさんこんばんは。今年2014年度も多くの傑作、力作、珍作映画に出会えることを願っています。特に作品を通して素晴らしい女優さんたちとの新たな出会いが楽しみでなりません。そんな世界の名だたる女優から女のあれこれを学んでしまおうというざっくばらんとしたこのコーナー。 
 
 久しぶりの更新となりました第2回目は、フランスの名女優、イザベル・ユペールにスポッットを当ててみたいと思います。実に幅広い役でいつも魅了してくれる彼女ですが、みなさま、どんなイメージをお持ちでしょうか。現在御年60歳ということですが、今年も5月には最新作が日本でも公開される模様。娘の裸体を撮影した写真集「エヴァ」を題材にした実話に基づく映画で、母であり女流写真家の役を演じたようです。幼くも美しい娘と母親というテーマで年ありなおかつイザベル・ユペールときたら観ないわけにはいきませんね。今から非常に楽しみです。記憶に新しいところでは昨年公開となった『愛、アムール』(ミヒャエル・ハネケ監督/2012年)や『眠れる美女』(マルコ・ベロッキオ監督/2012年)でも知的かつしなやかな女性を演じました。少し遡りますが『ジョルジュ・バタイユ ママン』(クリストフ・オノレ監督/200年)では息子と近親相姦関係にある母親の役を、ルイ・ガレルを息子役に色気のあるとんだ熟女を熱演。初めてこの作品を観た時には、あまりのぶっ飛び具合が似合うことに驚き、ハイな気分に酔しれたものです。バタイユが原作なので題材が題材ということもありますが、逆に言えば彼女以外の女優であの役を演じられる人はそうそうにいないのではないかということです。うーん、思いつかない。ちょっと奇抜で悪い女が似合うイザベル。というとすごく派手な感じがしてしまうのですが、お顔立ちも決して派手な方ではありません。地味なのにすごく派手に見えるし、どんなに下品な台詞を言ってもバカには見えないというか、すごく冷めた目をしているというか、なんというかいつも本心をついつい探ってみたくなるような女性だということなのです。もちろん映画の中はお芝居ですから台本があって台詞があるわけなのですが、役者が言っている台詞=その役柄の本心ではありません。本心しか言わないなんて会話としてはつまらないものだったりします。素晴らしい映画の脚本は説明ではなく、裏にある本心を想像させるようなものかもしれません。
 
さて、『沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇』(クロード・シャブロル監督/1995年)という作品。この作品でセザール賞最優秀女優賞とヴェネツィア国際映画祭女優賞(他にサンドリーヌ・ボネールも同時受賞)をとりました。作品自体もロサンゼルス映画批評家協会賞を獲得しています。ロウフィールド家で使用人を務める女性ソフィーはディスクレシア(識字障害)であることが明るみなったことをで、日々の不満を爆発させ友人の郵便局員とともに一家を惨殺するというストーリーなのですが、この郵便局員のジャンヌを演じたのがイザベル・ユペールなのです。なんというかとっても性格の悪ーい嫌な女の役で、もともと一家からも好かれていません。ソフィーとも仲良しというよりは、強引にロウフィールド家に潜り込む口実として利用しているだけというか、ひとのことなんかまるで考えちゃいない。観ていて本当に苛々してしまいましたが、見終わった後で一番印象に残るのはなんといっても彼女。身勝手で本当にずうずうしい。分かり易くコンプレックスを抱えたソフィーとは違って、得体の知れない底意地の悪さをもったジャンヌの意地悪さはまるでウイルスのような感染性があるようです。一家惨殺というかたちでソフィーの方は物語中コンプレックスに対する憂さが晴れても、ジャンヌの理由なき悪意と抱え込んだコンプレックスは残ってしまうようです。やっぱり印象に残るとついつい考えてしまいます。結局のところジャンヌの本心なんて何もわからない。物語はジャンヌの生活にフューチャーされているわけではないにも関わらず、彼女の本心をついつい覗いてみたいと思った人は案外多いのではないでしょうか。具体的な悪意とは違って、抽象的な悪意にこそ魅力(魔力)が潜んでいるのかもしれません。永遠に解けない謎のような女、それがイザベル・ユペールという女優なのではないでしょうか。






第一回 シャーロット・ランプリング ×『まぼろし』/大切なものを喪失した女は美しい

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第一回

シャーロット・ランプリング ×『まぼろし』/大切なものを喪失した女は美しい  



 みなさんこんばんは。今日は記念すべき第一回ということで、私が担当するこのコーナーでは世界の名だたる女優たちから女のあれこれを学んでしまおうというざっくばらんとしたコーナーです。で、第一回目ということで、好きな女優さんはたくさんいますが、女たるもの色気を学びたいもの。大人の女と言ったらフランス。そこで第一回目にまずはフランスの大女優、シャーロットランプリングさんから女のあれこれを学ぶことにしました。 シャーロット・ランプリングといえば、何の映画が印象的でしたか?何を最初に観たか、とかいろいろとあると思いますが、私は何と言っても彼女を知るきっかけになったフランソワ・オゾン監督の『まぼろし』。当時中学生でした。横浜のジャック&ベティに一人で行ったのを覚えています。2000年フランス制作ですが日本での公開は2002年。仏・米ともに大ヒットだったようだけど私が行った時は空いたような。あ、平日だったからかな。 この映画がきっかけで彼女の存在を知った私ですが、この『まぼろし』は愛の喪失の仕方というのか受容というのか、長年連れ添った夫がバカンス最中の海で突然いなくなってしまうという話なんですが妻を演じるシャーローットがすごく艶っぽい。よく、喪に服した女性の姿が美しく映るなんて言うけど、まさにあれ。映画の中で実際に夫はいなくなってしまうわけなんだけど、なんというか彼女っていつも何かすごく大切なものを失ったような目をしてるんです。そこに低めの声が更なる説得力を与えるというか、ものすごい知性を漂わせています。頭のいい女の悲しみとでも言うべきか。

 恋愛なんかでもそうだけど、黙って色んなことを受け入れられることほどぐっとくることはありません。それに気づかないような相手はそもそもご縁がなかったってことで苛々する必要ないと私は思います。なんでなの?とかどう思ってるの?本当は?なんて質問攻めにされるとガッカリ。いくら愛情が深かろうといつもじーっと見つめられていたら気味の悪いもの。時折愛情を持って見つめてくれるからこそドキッとします。愛があるならほどよく放っておいてくれ、黙ってくれってことです。沈黙の間にこそ相手のことを考える時間ができるのだから。だからあれなんですよ、黙って受け入れようとすることは当然相手のことを知る、詮索するってことじゃなくて知らないことまで含めて、愛すること。知らないこと、自分が知り得ないこと、喪失すること。相手という他人を目の前にして相手に対する自分の限界を受け入れるということ。単純に大事な人を失くしたとか死別したことが喪失ではないんですね。そっちの方が分かり易い比喩表現なだけ。『地獄に堕ちた勇者ども』で23歳にして30歳で二人の子持ち役をヴィスコンティに抜擢された時、一度は断っているそうですがヴィスコンティは「何でも見透かした哀しい目」と言ったそうです。「その目があれば大丈夫」とも。ああ、素敵ななんて表現なんでしょうね。

 プライベートでも随分スキャンダラスな女性だったようですね。夫と恋人と3人で同棲とか、マスコミは騒いだようだけどまあお構いなしだったようです。愛なんて当事者同士が分かってれば2人でも3人でもいいじゃないの、と思うけど、動じない彼女はやっぱりステキ。スキャンダラスな恋と言えば大島渚監督の『マックス、モン・アムール』。チンパンジーと人間の愛についてのセンセーショナルな物語です。今年日本で4月に公開されたレオス・カラックス監督の最新作『ホーリーモーターズ』でもこの作品へのオマージュシーンがありました。こちらも今年公開のなかでも特に素晴らしい作品なのでオススメ。 今回彼女から学んだことは、受け入れて限界を知る=喪失して生きることでぐっと色気を増すのだということでした。『まぼろし』自体はとても静かで色っぽい映画です。これから秋に差し掛かる夜にワインと合わせて観てみてはいかがでしょうか。


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2014年1月19日日曜日

【映画逆転裁判】#1『帝都物語』part.1




#1『帝都物語』part.1



さて、いよいよ始まりました第一回、今回は実相寺昭雄監督『帝都物語』です。

累計500万部を売り上げた荒俣宏による原作小説は、明治末期から昭和73() まで100年に渡り、歴史の裏に暗躍する魔人・加藤と、虚実入り混じった登場人物たちの闘いを全12巻に渡り描いた伝奇巨篇です。ご存知ない方もいらっしゃると思いますので、まず原作のあらすじを紹介します。


明治45年、明治・大正期を代表する実業家・渋沢栄一は日本の近代化を推し進めるため、各界の識者を招集して帝都を抜本的に改革する、通称『東京改造計画』を始動する。
同じ頃、大蔵省の若き官僚、辰宮洋一郎は陰陽師・安倍晴明の末裔と名乗る謎めいた男、加藤保憲に出会う。
加藤の狙いは強い霊力の持ち主である彼の妹、由佳理を依童にして平将門の怨霊を目覚めさせ、帝都を灰塵に帰する事だった。
加藤の企てを阻止するため、彼らは霊能力者同士の壮絶な闘いに身を投じていく

『帝都物語』は原作の第一部に当たる第4巻までを総製作費18億円を投じ、オールスターキャストで映画化した娯楽大作です。

 主演、加藤保憲役には個性派俳優として知られ、本作で銀幕デビューを飾った嶋田久作を抜擢、加藤に対峙する巫女、目方恵子役に原田美枝子、渋沢栄一役に勝新太郎、辰宮洋一郎役に石田純一、ほか島田正吾、佐野史郎、坂東玉三郎、宍戸錠、中村嘉葎雄、大滝秀治、西村晃、高橋幸治、峰岸徹、井川比佐志、平幹二朗らの豪華演技陣を起用。俳優以外にも、いとうせいこう、桂三枝が重要な役で登板。
脚本には当時新進の映画監督であった林海象、コンセプチュアル・デザイナーには『エイリアン』で知られるH.R.ギーガー、スタッフにもベテランを揃え、プロデュースには後に世界中にJホラーブームを巻き起こす一瀬隆重が当たりました。

 更に木村威夫美術監督の指示のもと、総工費3億円を投じて3000坪に及ぶ昭和初期の銀座オープンセットを建造。その徹底した時代考証に基づくディテールは、もう一つの主役である帝都・東京を表現するに相応しい仕上がりとなっています。

 この他全編200カット以上の合成を駆使したサイキックバトル、日本映画のお家芸とも言える精緻なミニチュアによる関東大震災の映像化、クライマックスに登場するギーガーデザインによるモンスターなどの見せ場を満載した『帝都物語』は昭和最後の年、1988130日に日比谷スカラ座ほか全国東宝洋画系約130館で正月第二弾作品として鳴り物入りで封切られ、その年の邦画配給収入第9位となるヒットを記録、続編映画、OVAほか、多数のメディアミックス作品を生み出しました。

上 記のように映画的な見所も多く、商業的にはある一定以上の成功を収めた『帝都物語』ですが、原作小説の高い評価とは裏腹に実相寺昭雄監督による本作は長い間失敗作として扱われてきました。
『帝都物語』の低評価の原因とは何だったのでしょうか。

この映画の難点は一言で言えば「わかりづらい」という事に尽きます。
では、どのような点がわかりづらいのか、いくつかあげて行こうと思います。

1.名前、背景がわからない

 『帝都物語』には実在の人物が数多く登場します。
 平将門をはじめ、文学者では森鷗外、幸田露伴、泉鏡花が、学者筋では寺田寅彦、大河内正敏、今和次郎、西村真琴などが、政治家、実業家では前述した渋沢栄一、織田完之、早川徳次が登場します。
 ちなみに原作小説では映画化された第4巻以降にも、満州事変、二・二六事件などを通して多くの人物が登場し、物語終盤では、なんと角川春樹が新興宗教の教祖として加藤に対峙します。もちろん、実在の人物が登場する映画は『帝都物語』以外にも数多く存在しますが、この映画では一人一人の人物に当てられた役割が非常に大きく、彼らの業績や時代背景を理解していないと今ひとつピンとこない作りになっています。
 では実際の映画ではどのようになっているか、冒頭より三つのシーンを例にとって見ていきます。

 まず映画冒頭、製作陣のクレジットに続くオープニングシーンです。
 帝都を一望出来る小高い丘の鳥居の前で白装束の男たちが祈祷を行っています。そこに「明治45年」の字幕がインポーズ。そこへ黒塗りに乗って渋沢栄一、織田完之がやって来ます。
 白装束の男、土御門家の老陰陽師・平井保昌は、地脈と呼ばれる怨霊が巣食う不気味な地割れを彼らの前で祈祷により鎮めて見せ、平将門の怨霊を目覚めさせ帝都破壊を企む者がいる事を語り、渋沢が進める「東京改造計画」に土御門家を加えることを進言します。
このシーンには三人の人物が登場しますが、字幕等の説明は行われません。
 勝新太郎演じる渋沢に関しても平井は「渋沢翁」と呼ぶのみで、織田に至っては劇中で名前が呼ばれることはありません。
 すでに晩年に差し掛かっていた勝の独特のボソボソとした喋りもあいまって、何を言っているのかほとんど聞き取れません。
 渋沢は重要なセリフを多く託されていますが、ラストに至るまで基本的に座ってボソボソしているだけなので、ここがわかり辛さの一因にもなっています。
 続くタイトル明け、神田明神での祭りのシーン。
 ここはこの映画の主要人物紹介に当たるパートです。幸田露伴と森鷗外が連れ立って『未来の帝都』なる覗きカラクリを見物します。ここで鷗外は、露伴に対し「露伴さん、あんたの書いた『一国の首都』も顔負けだね」と話しますが、ここでも「幸田露伴」「森鷗外」といった字幕は出ず、鷗外を演じる中村嘉葎雄の台詞が周囲の喧騒で聞き取りづらく、何度聞いても「ハンさん」と聞こえます。
 次のシーンでは、辰宮洋一郎の親友である理学士、佐野史郎演じる架空の人物、鳴滝純一(彼の職業についても劇中ではこれと言った説明がない)が、「幸田先生と森軍医も来てるはずなんだが」と話します。

 そこで、この一連のシーンの意図を理解するためには、
 ・幸田露伴と森鷗外に当時親交があったこと
 ・『一国の首都』(明治33年刊)が幸田露伴の著書であること
 ・森鷗外が軍医であったこと
 これらの知識が必要となります。

 更にシーンは続き、洋一郎、鳴滝、由佳理がお参りをします。ここでは鳴滝が由佳理に恋心を寄せていること、由佳理が実の兄である洋一郎に対し尊敬以上の感情を抱いていることが示唆されます。
映画的には問題のなさそうなシーンですが、ここで由佳理は洋一郎に「ご先祖様に手を合わせて」と語りかけます。
 つまり辰宮兄妹が平将門の末裔であることを表しているのですが、まず、
 ・神田明神が将門を祀った神社であること
 ・将門祭りが将門の怨霊を鎮めるための祭りであること
 を知らなくてはなりません。

 しかもここまでで9分、これは138分の本作全体の一割にもなりません。挙げていけばキリがありませんが、全編がこの調子で進んで行きます。20人以上いる主要登場人物がフルネームや肩書きを語るシーンは、この後もほぼありません。これでは解りづらいという意見にもうなづけます。

2. 知らないことが多すぎる

 『帝都物語』は、平たく言えば霊能者同士の闘いを描いた作品ですので、劇中には陰陽道や風水にまつわる知識が大量に登場します。
 前項に記載した史実については、高校卒業程度の日本史、文学史である程度カバー出来るものですが、これらの特殊な知識は一般の教養の、明らかに外側にあります。
 先ほど書いたオープニングシーンでも、平井が渋沢に対し、地割れから現れた地脈について説明する台詞があります。それは次のようなものです。
「地脈。中国の地相学では地の竜と呼ばれる、大地が持つ霊力の流れにございます」
 この台詞の意味が一回聞いてわかる方は殆どいないでしょう。
 平井、加藤など霊能力者の登場シーンではその後も「蠱毒」「依童」「休門」「偃王の呪法」「護法童子」などの語が飛び交います。
 台詞の語感に近づけるため、試しにこれらの語をカタカナ表記にしてみます。

「コドク」「ヨリワラ」「キュウモン」「エンオウノジュホウ」「ゴホウドウシ」

 如何でしょう、僕はさっぱりわかりません。
 時代性を考慮しますと、Dr.コパの台頭やワイドショーの煽りにより起きた風水ブーム、夢枕獏の小説を起点とした陰陽師ブームが起きた後の今日と違い、まだ五芒星が護符であることも知られていなかった公開当時の観客にはなんとなくの理解も出来なかった事でしょう。
この他にも今和次郎の語る考現学、寺田寅彦の物理学関連の台詞や展開も一般教養の範疇を超えるものです。

3. 加藤がわからない

 本作の最大の魅力と言えるのは、強大な力を持ち、歴史の影に暗躍する魔人・加藤保憲のキャラクターです。
 歴史上の偉人たちや陰陽師の力を持ってしても太刀打ちできず、式神を使役し、呪術によって関東大震災を引き起こす。その絶対的な悪のヒーロー像は後発の作品にも多大な影響を与えました。現在でも演じる嶋田久作の顔面の圧倒的なインパクトとともに記憶している方も多いと思います。
 しかしこの加藤のキャラクターこそがこの映画を分かりにくいものにしている最大のファクターとも言えます。
 前二項に挙げた背景への理解を取り払えば、『帝都物語』は破壊しようとする者、それを食い止めようとする者の闘いを描いた至ってシンプルな活劇映画とも言えます。
 では何が理解を遠ざけているのか、それは加藤保憲の行動原理が不可解なこと、そしてその加藤を主人公に据えていることです。
 加藤の目的は明快です。

  平将門の怨霊を呼び覚まし、帝都を破壊すること。

 しかし、加藤がなぜ帝都を破壊しなければならないのか、そこが分からないので、観客が焦点を定め辛くなっているのです。
 加藤が単純な悪役であれば行動原理など必要ではないでしょう。しかし本作においては悪役である加藤を主人公として描いています。主人公の行動原理が分からないことは、観客の理解にとって大きな妨げになっているはずです。
 劇中、本作のヒロインである巫女、目方恵子が始めて加藤と対峙するシーンで恵子が加藤に問いただす。
「何故、それほどまでに帝都を憎む」
 これに対し、加藤は
「この大地は死にかかっている!お前ら愚かなる民が奪い、汚したからだ!俺はお前らからこの神聖なる地を解き放してみせる!」
と答えます。
 劇中で加藤が自分の思想を語るのはこの台詞のみです。
これだけを聞いていると、加藤がまるでシーシェパードか何かのようなエコテロリストに思えてきます。
実は、安倍晴明の末裔を名乗るこの魔人の正体は原作小説全体を通したテーマであり、登場人物たちは一世紀に渡って加藤のこの謎に向かって行くことになります。
 よって、原作の3分の1に当たる本作では今ひとつピンと来ないキャラクターになっているのです。

 ここまで三点に渡り、なぜ『帝都物語』が分かりづらいのかをつらつらと書いてきました。
 ではなぜこのような構成になったのか、この点については次回以降、原作小説、シナリオ、完成映像との比較で詳しく扱っていこうと思います。



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